最近、読んだ本2冊。昨日、『居るのはつらいよ』は早速、妻に報告しようと話しかけたら、間違えてオナラが出てしまい、妻に「ヘェ〜」と言われてしまいました。
東畑開人さん『居るのはつらいよ』(医学書院)読了。ほぼ同年代の筆者が大博取得後に働いたディケアをモチーフに描いた「学術書」。後半に明かされた真相に、ぼくは震えた。なぜならぼく自身が経営者として突きつけているそれこそが敵であり、そして満身創痍でも闘戦おうとしといる相手だったから。 pic.twitter.com/wiwPJqArgG
— しゃむしゃむ (@mshkztk) 2019年3月6日
『居るのはつらいよ』は最終章とその前の章まで楽しく読み進めていたけど、最後は震えながら読みました。感動なんてできません。
読みながら、ひたすらリベルテを思い返しました。改めてサービスとして収益を上げていること、お金もらい働いていること、「障害」があるメンバーがそこに居ることと、そんな支援者と利用者という非対称な図式で成り立つ施設の形態で、ケアとアートで結びながら何でそこでギリギリアウトを狙わないといけないのか、とか、光が当たる当たりやすいことよりも、もっと光をあてなければならないことがらあることとか、ぐるぐると今も混乱しているます。
なにか、多くの誰かが受け取りやすくわかりやすい答えじゃない、なにか今までと違ったやり方や言葉を、光が当たりづらい物事へもっと光をあてないといけないのかもしれないと、妻に言おうとしたら力んでしまったのです。
ぼくがオナラの話をするならば、ぼくもオナラを積極的にしていった方が良いんじゃないかって、思ったのです。
ある人がリベルテはアジールだと言ってくれて、確かにぼくもアジールを目指しています。しかし、実際の福祉現場は支援者の考えで現場ができる。キレイにパッケージされた言葉や物語が生まれる。そういうことにすることは、それはいったい誰のため何なのだろう?メンバーが弱さや葛藤から身を隠せ、またはスタッフのケアによって傷を癒やすような場になればとも思います。できるかどうかはさておいて。だけど、そういうことを目指しているこの施設で働く支援者然としている「ぼくたち」だって、そのメンバーがいることでケアするということが成立して、この社会の中でかろうじて、まるで良い人でなおかつ自立した大人なであるかのように振る舞える。入所施設の19人もの命を奪ったあの事件も生かされていたのは自分だってことに気づけずに、何を理由にことを起こしてしまったのか思うと、すごく悔しい気持ちにもなります。同じ人間なのに、しかしなんだかよくわからない言い当てようすればするほど言い難い「障害」が、まるで「違うのだ」と言わんばかりに分断を生んでいると感じます。もちろん、ぼくも(悔しいけれど)そういう社会に巻き込まれている当事者だ。
その不気味な「何か」と闘い、敗北し続けているけれど、やっぱりまだまだどうにかこうにかやっていこうと読み終えて思いました。いや、いつだって忘れられる。そして、都合よく考えられる。いくらでも修正可能だ。そこに光が当たる。だけど、本当に光を当てたいのは、当てて明らかにしていきたいのは、多くの人がそれをお節介だと知りながら手を出しては関係し、贈与し合い交流してどうにかこうにか生み出してきた個人と個人と(個人と個人…と)、と連鎖する小さな文化のようなものの方です。
いつも以上に個人的で訳のわからない文章だけど、居るはつらいよのに出てくるタカエス部長のハゲ頭のような光を、(まだまだそんなにハゲてもないけれど)ぼくもバレないようにギラギラしていきたいなと思いました。
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居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 東畑開人
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