しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々をしゃむしゃむと呼ばれている代表がつづります。

日報20191231

2019年12月31日。

だいたい多くの人が「今年もこんなことあったよね、」と振り返るタイミングでぼくは自分がつくった理由により企画書のアウトラインをデニーズで書いています。
来年のことを考えているのだけど、もう来年って明日になればそうなっている。
だけど、自分に染み付いた日本の風習というか文化というか、それは明日のことなのにエラい先の未来のような気もします。
ということは、2019年もきっと、「昨日のこと」なのにエラく遠い過去として「昨日のことのよう」だと記憶の中にまとめられてしまうんだろうか。

12月になって『急に具合が悪くなる』という日本哲学者と文化人類学者がメールをやり取りしならキャッチボールのように、言葉によって思考を往復させていく本を読みました。
そのときぼくは痔の手術をした前後で、患部も痛いしゲーム(ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド - Switch)もそろそろ少し飽きて、健康について気軽に哲学したり考える本だろうとをそれを読み始めました。
その期待を大きく裏切る本でした。
というか、この内容で表紙のイラストも装丁もズルいでしょ。
ガチャガチャまわしたら、ピンの抜けた手榴弾出てくるような、罠ですよ。

急に具合が悪くなる

急に具合が悪くなる

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド - Switch

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド - Switch

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 任天堂
  • 発売日: 2017/03/03
  • メディア: Video Game

2019年、色んなところで「覚悟」と言っている人に会ったり、書いている本やウェブ媒体にふれる機会が増えた感じがします。
いや、実際は増えてはいないけど、ぼくが「覚悟」というものについて気になっているからそう感じるのかもしれません。
「〇〇する覚悟」って、なんだか最初にするものなのかわからない。
どれだけの人が「覚悟」して自覚的にコントロールして「今」があるんだろう。
痔の手術は覚悟したと言えばしたけれど、例えば100人に1人の確率で大量出血すると言われてぼくは「覚悟」したんだろうか?
お尻から着火ファイヤーがなんぼのもんじゃい!と手術台に登ったと言うより、大きな身体を震わせてまな板の上の鯛のような感じでした。

「覚悟」というとき、それは「質」的なことを言っているものがある気がしています。
質を高めれば成功する確率は上がる、と。
確かに。
しかし、成功しないこともある、ということに対して「質」的な「覚悟」はまったく持って無力です。
『急に具合が悪くなる』も、末期の癌であり、緩和ケアの必要性も出ているその人にとって「覚悟」したって死ぬ。
この本で最後の最後に「覚悟」について触れられていて、その覚悟はどういうものなのか、ぼくが「覚悟が必要だ」という話を見聞きしたときに感じる違和感とそれは、なんだか違った響きを持っていました。
『急に具合が悪くなる』その人にとって「覚悟」って、あのときキャッチボールで弧を描いた先にあった「覚悟」って何だろう、と。

「死ぬ覚悟」なんてものはあり得ないとぼくは思います。
「死んだ気になれば、何だってできる」って、そうやってナイフ振りかざし弱い子どもを殺して自分も死んでしまう人が現実に現れ、そして映画でも『JOKER』として描かれた現在地点に生きているぼくは、「覚悟」っていう強い言葉に対して怖さを感じているのかもしれません。
しかも、覚悟してできるかどうかというのは100%コントロールできない意思の話だから、ぼくにとってそれは結果として「形成」された物語にも聴こえます。
確かめ得る方法がないときにそれが必要とされるほど怖いものはない。
全ての覚悟を否定したいわけじゃなけれど、覚悟した先でもしかしたら、ぼくは年末を病院のベッドの上でお尻をケアして横になっている可能性だってあるのだから。
今、私、たまたま。の「偶然性」を考えると、覚悟って何だろう。
『急に具合が悪くなる』の覚悟についてずっと考えていました。
wwws.warnerbros.co.jp


M-1グランプリを初めてぐらい、決勝3組だけ見ました。
オードリーのオールナイトニッポンで若林さんが「ペコパ」のツッコミを見て笑いながら泣いたと言っていて、気になっていたからです。
ツッコミは多様性を否定してしまうけれど、全部受け止めてツッコめること、ツッコミすることについて考えていたら泣けて(笑いながら)きたみたいな話でした。
ペコパの漫才は、(って、お笑いを解説しようとするなんてダッセーな!って言われるかもしれないけれど)なんかこう、目の前で繰り広げられる現実に無理くり自分の中に余白をつくっていく感じがありました。
だけどそれって、自分が現場の中にいる感じに近いものを感じもしました。
なんだろ、傍から見るとそれは「優しさ」に見えるのかもしれないけど、なんかこう、それは優しさじゃないんだよなー。
なんだろ、ツッコミが自分をアップデートし続けちゃう感じ。
あ、え、それって一般的には違うけれども、そういうこともあるようにしていこうよ!
みたいな。
だけど、ペコパのあれって「覚悟」ないとできないツッコミじゃないかって思ったりしました。
だって「漫画みたいなハマり方するなよ!」だけで笑えるのに、「っていう漫画どこにあったっけ?」って、さらにそこまでツッコむの!?
ボケは全然、変わってないのに(しかも、これ超大事だと思う)。
(ダッセーことを言うなよ!けど、そういう考えでもう1回見ても笑えるね。)
www.allnightnippon.com
lineblog.me

デニーズで1時間ぐらいかけてこの文章書いていて、現時点でアウトライン半分も終わっていません。
だけど、明日は来るし、来年も来るし、計画書の提出の締切もあるし来ます。
提案し確率を上げるためにいくらでも頑張るけれど、覚悟があるかどうか、言われるとこの企画もわかりません。
というか、質的なものが先にあるとぼくの考える企画はだいたいポシャるのが自分でもわかります。
一般化や体系化された評価に対して弱いもの、「だから」やっているからです。
だけど。
だけどさ(って、メンドクセー奴だなって言われるかもしれないけれど)、質的な覚悟が先になくても、生きてて良いし、そんな覚悟がなくても死ななくていい。
未来を拡張しようとする意思の言葉に「覚悟」を引き戻せるのなら、ツッコミを一般化から開放し意思を乗せること(も)できるように、そういう覚悟について考えてみたいです。
そのとき、その覚悟がどうか人を追い詰めたり、先鋭化させる装置だったり、スーパーマンが人々を煽ったりするような強いものではなく、一人ひとりがそれぞれの今を未来に届ける意思のかたまりとして触れられるフラジャイルなものでありますように。
(メンドクセー奴だな!って言うオチを書いているときに店員さんは「いつ帰るんでしょう?」ってこちらを様子を伺っていることも忘れずにね。)
「昨日のことのよう」な今、から明日くる遠い未来。
本年もお世話になりました。
また来年も宜しくお願いいたします。

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