上田映劇で映画『道草』を鑑賞しました。映画は4人の重度の知的障害者と、その自立支援を支える支援者、そして家族のドキュメンタリーです。日々にユーモアや親密さが感じられるちょっとラフな言葉遣いのやりとりや、自傷他害に苦しむ本人や家族の葛藤、そして相模原殺傷事件の被害者とその家族のこれからについて、と自立生活とその支援をめぐる日々が描かれています。
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(この後、ネタバレあります。写真と映画は関係ありません汗)
映画の冒頭、登場人物のひとり「リョースケ」が、公園で遊ぶ女の子二人の後を追っていく場面があります。同伴している介護者が、「お前が追いかけるのヤベーよ」と静止を促すところで、多くの観客が「オメーの方がヤベーよ!」とツッコむんじゃないか。ぼくは密かにツッコんだ。本当は声を出してツッコミたかった。だって、キャップにグラサンとヒゲでストリート系のファションの野郎(よく言って。悪く言えば輩、だ)がヘルパーしてるなんて、傍からは気づかないだろうから。
グラサンの兄さんやタトゥー入った兄ちゃん、ハゲちゃってるけど何故か登場シーンほとんど涙目のおじさん(たぶんエラい人)、映像撮られていることが嬉しそうな自意識高そうだけど優しくて一生懸命なおじさん、疲れたおじさん(お父さんとその仲間)、なんだかセレブリティな暮らしで実家から帰りたくなさそうなリョースケをはいはいと送り出すおじさん(お父さん)。外出時はかならず黒いバンダナのような帽子をかぶっているヒゲのおじさん(お父さん)。おじさん率高いけれど、もちろん、お母さんも出てきます。ただ、父であるぼくはちょっとだけ「男」たちに感情移入してしまいます。
「叫ぶのをやめないと散歩進まないよ」と注意をうながす支援者は言うことを効かない「ヒロム」にどこか拗ねているように見えるし、ヒロムの方が歩み寄ると見せかけてまた「トー!」と叫び一枚上手だ。この散歩の支援も、もちろん公的な補助金で支援を行っているサービス中だ。が、しかし利用者も介護者も、一人ひとり個々の関係性を厳密なマニュアル化やルーティングにして制限しなくても、自立生活が成り立っている。もし福祉をパターナリズムと穿った見方をしたとして、そこで起こっていることは、制限や抑止を前提とするパターナリズムと、信頼と関係性をベースにするパターナリズム、その両方があるのかもしれません。支援が余計なお節介であったとして、ぼくの仕事はどちらの側に転ぶんだろう。
この映画に登場する「父」はみんな、疲れていて、優しくて、お節介焼きで、ついつい利用者を許しちゃって、情けなくて、反省もしていて、何も出来ない、けど目の前の人との生活や幸せを実現したり続けられるようにと、試みようとしている人たちばかりだ。同じように、自立支援を受けている「男」たちも今の生活をときに淡々と、混乱や葛藤もある中で続けています。映画の中で明確で明瞭な意思として本人の言葉で「自立生活を送りたい」と語られることはありません。一般的な仕事という概念もないし、好きなことをしているようにも見える。苦しそうにも見えるけれど、よく分からない。「ユウイチロー」が日本一川幅が狭い河川を見に行くような無駄とも思える外出に行く。それだけのことで、なんでこんなに晴れやかな気持ちになるんだろう。それはひとつ、暴力に対して真っ向から向き合わず、むしろそのことに対して「応酬する暴力」や制限で返すことを躱し否して、「またね」と次も会おうとする人たちがそこにいるということがあるんじゃないか。「またね」「じゃあな」とグラサンの強面やその後輩らしきタトゥーの入った若者たちも一緒にリョースケやヒロムに声をかける生活が10年以上も続いているのです。そして、その男たちの視線の先には、次にユウイチローやカズヤさんがいるだろうし、彼らと同じような「またね」という声が返ってくるでしょう。そうだ、見た目なんてどうでもいい。ラベリングはいつでもどこにでも潜んでいる。本当はただ、わたしとあなた、が、いる未来があるはずなんだと気付かされます。
上映後のトークイベントで、たまたまとなりに座っていた元上司に助け舟をいただいた形で質問ができました。特に聴きたかったのは、相模原の事件*1をどうして映画の中で取り扱ったのかということ。そういうことを狙ったのか。それとも偶発的だったのか。ぼくは、相模原の事件をわざわざ引き合いや引用して、障害のある人の命に意味があるという言説を強化することに違和感が実はあります。あんなファッキン糞野郎のやったことをわざわざ取り上げてしまうことは、きちんとしたロジックや批評性がなければあの行為を逆肯定しかねないと思う*2からです。ぼくにはまだそのロジックもなければ、覚悟もないかもしれません。それに事件の起こるずっと前から、多くの人が闘ってきたように、障害があってもその人の命は誰の許しを得なくても勝手に肯定されると思っています。だから、なぜ取り上げたんだろう?と思いました。
監督は事件前から撮影してた都内の入所施設に入り込んでいる最中に、事件は相模原市の障害者入所施設で起こります。当初は取材することはないだろうと思っていましたが、その後、事件後の施設と地域との話し合いに参加する機会があったそうです。そこで被害者の父が入所施設をかばったことが逆にやり玉にあがってしまう場面に出会います。それが登場人物のカズヤさんのお父さん。入所施設の存在やそこで暮らす人、家族の「背景」を知らずに地域移行や施設解体が言われてしまうことへの違和感が、撮影につながったという話をお聴きしました。監督自身が人を対象として切り取るのではなく、止むに止まれず撮影していったのでしょうか。自立生活とあの事件がセットで語られることでの安易な施設の役割の否定は、やっぱりラベリングだし、あの事件の構造が再生産されてしまうかもしれません。その背景があったから、監督自身はあそこでカズヤさんではなく家族へ「道草」して取材したんじゃないでしょうか。登場人物に出会った順番に撮影されていったように、映画を見ているぼくもきっと一人ひとりにその場限りの感情移入かもしれないけれど、「今、ここでは」確かに、知り合い一緒の時間をすごしているような気がしました。
ラベリングをひっぺ剥がそうとしたとき、ぼくは誰と出会うのか、そういうことがやっぱり大事なんだなと思いました。言葉や暴力のナイフを手放し、−−いや、綺麗事ではなくてそれは難しい、けど−−彼らと肩を寄せて前を向いてあるく人がどれだけこの先、増えるんでしょうか。あんな幸福そうな後ろ姿は、どうやったら増えるんだろう。障害のある人を望んでもいないに社会を変えるための言説やツールにはできないし、したくないけれど、だけど、あの後ろ姿が街に、路に広がれば、何か少し風通しが良さそうだ。幸福な道草の時間が増えたらどんなに素敵なことでしょう。
振り返って、リベルテはまだラベリングの向こう側にいるかもしれません。かもしれないし、さらに、もしかしたらモヒカンでハゲてて、ヒゲでメガネのぼくも、知らない人にとっては障害のある人の支援者をしている人には見えないかもしれません。だけど、リベルテになんだか集まって、何だかよくわからない何かをやっている人たちがいる。それが利用者や支援者に見えなくてもいいし、見えてもいい。それはどちらでもいいことで、どちらかというと一緒にいる人とわちゃわちゃ何だか仲が良いような悪いような、だけどやっぱり仲良さそう?そういう雰囲気でぼくたちも見られていたら、何だか嬉しい。
*2:と、同時に自分自身の中にも暴力性があることは否定できないし、そういう部分は本当にくだらなくてやるせなくなるけれど、だけどじゃあ、はい終わりってじゃないってところからやって行きていです。