しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々を苔おじさんと呼ばれている代表がつづります。

リベルテ・アーツ・カレッジ「読むこと」について(ステートメントにかえて)

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障害のある人の作品を鑑賞したとき、作品を言い表すとき、感動や感想を言葉にするときに、「障害がある」という話がついてまわります。
本当はもっと豊かな感想や感情が鑑賞を通じて生まれてきているにも関わらず、なぜ「障害があるのに」「頑張って」「描いている」という言葉しか生まれないのか?ということを最近、よく考えるようになってきました。
きっとどんな人も作品を、本当はよく「見て」いるはずなのに。

このことについて、障害のある作家・表現者側でも、鑑賞者の問題でもなく、実は美術の批評や「読む」ことに対して、なんとなく苦手意識や偏見がいつの間にか生まれているからじゃないか、と感じています。
言葉で言い表すことについて「難しいこと」だと思いこんでいる人が多いでのはないかと仮設を立てました。

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前回の中津川さんの企画では、鑑賞しその感想や感動を言葉にすることが、「難しいこと」ではなく、とても大事で、自分なりの作品の見方で広がる作品の感動があることがわかりました。
中津川さんのように絶え間ない知識の吸収や自身の作家としての創作に打ち込むからこそ「わかりやすい」鑑賞のレクチャーが可能だったとも思います。
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現代アート」はよく「わからない」と言われます。
では、その反対に「わかりやすい」作品や展示や作品は、アート本当に「わかりやすい」ものなのでしょうか?
アートは複雑さや多様さを、言語や科学的な根拠の正しさだけでない方法で、現実に立ち表せる術として、最初からは訳のわからないことを含んでいるものではないでしょうか?
「わからない」「複雑」「多様」であることを受け入れるということ。
それは、自分の理解の外側にある価値や考え方、そして文化や歴史を知り、自分と作品との対話から「わからない」という枠をどんどん拡張させていくことなのかもしれません。
今回、ロジャーさんの講演は、知らない人にとっては摩訶不思議な美術の歴史(どこからスタートにするかも、実はぼくは興味津々です)を紹介してもらうことから始まる予定です。
そして、あまり聴くことのない「美術を読む」ということ、そして改めて、ともすれば「障害者アート」と括られてしまう障害のある人の作品を「読むこと」を試みてみたいと思います。
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