しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々をしゃむしゃむと呼ばれている代表がつづります。

念じる


この数ヶ月、子どもが生まれてからですが、帰ってご飯を食べて、風呂に入れて、洗濯物(主にオムツ)干して、皿洗いしてと、やっています。

もちろん毎日できている訳じゃないから、出来る旦那みたいな書き方はできなんだけど、自分の無理のないところで、自分なりに出来るだけ/出来る限りをやろうと、努力というふうには思わないで、呼吸するように、習慣を心がけています。
たまにゲームやったり、(こんなふうにブログ書き始めたりして)パソコンみてて眠くなって寝てしまう日も、もちろんあります。
で、寝てしまう。

そういうことが多い週もあります。
そんな日々ですが、最近読み始めた本のひとつに、ぼくが勝手に心の師と仰いでいる中井久夫さんと統合失調症の当事者であり、ラグーナ出版の従業員でもある人たちが「統合失調症とは?というテーマ」で文章を寄せたものがあります。

統合失調症をたどる (中井久夫と考える患者シリーズ 1)

統合失調症をたどる (中井久夫と考える患者シリーズ 1)

最近、仕事を辞め(させられ)てこれから自分のような障害者を支援したいしレッテルに対して憤りのようなものを感じた!という電話に対応しました。
珍しくそんな唐突な電話を受けました。
リベルテの福祉事業のメンバーのこともだけど、ときには自分の家族のことや自分自身のことで、悲しいことや怒りとか、あとはやるせなさを感じることがあります。
それは、その人自身の気持ちに対してシンパシーを感じるときもあれば、気持ちとしては距離があるんだけど、どうにかならないだろうかとエンパシーとして共感することもあります。

ぼくのように真面目ぶっていてもダメだとは思うし、やっぱり誰しも楽しいことが良いと思う。
楽しくないとやってられないよって、本音だとも思う。
だけど根本的な、その人の人生に勝手にまとわり付いてくる「障害」について、一緒になって打ちひしがれる「だけ」っていうのも、ぼくは支援だと思う。
何ていうか、「支援」「当事者」「現場」「障害者」なんて言い方は嫌だ・ダメだという人もいるだろうけど、ぼくは実際にどういう関係性や環境、仕組みや意志のやりとりがそこにあるか、の方がずっと大事だし、そこを考えたり話し合ったりするってことが大事だと思う。

言葉が大事なんじゃなくて、徹底的にそこで意志の交換を行う場作りをするってこと。
すぐ支援者が答えを出さない、その場で支援者が楽しくないからダメだとか思わない、悲しいな、大変だなってこと、なんだかぼくは無力だなってことを、スタッフと、友人と、地域と共有する社会化するということも、ぼくは支援だと思う。

統合失調症をたどる』を読みながら、そんなことも考えています。
で、この本の一番、好きなところ。

患者にたいするときは、どこかで患者の「深いところでのまともさ」を信じる気持ちが治療的である。信じられなければ「念じる」だけでよい。それは治療者の表情にあらわれ、患者によい影響を与え、治療者も楽になる。
p.165, l.8-10

念じる。
勝手に信じる。
正直、障害のことは、きっとリベルテの福祉事業のメンバーだって、つい先日に電話くれたあの人だって「どうしてなんだよ!」ってわかんないんだと思うんだよね。
ぼくだって、わからない。
そういう「謎」の前で、「それは障害だから支援が必要だね」なんて、まったく効力のないマジックワードだ。
そういうのは支援と呼ばないんじゃないか。
支援するってことは、届かないかもしれないけど、「確かにある」意志をこめられた手紙を運ぶポストマンなのかも。
誤配をも恐れずに、込められた言葉にしがたき意志を、社会に、地域に、暮らしの中で、「その人」が差出人として。
だから、支援者も信じるしかない。
その手紙の中身は、きっと意思があることを。
ぼくらが手紙を信じなければ、その手紙が出されることもないのだから。

子どもの話に戻るけど、やっぱり小さい自分の子どもに対して、一緒にいて嬉しい気持ちだけじゃないです。
心配になることも多いし、少し泣きやまなければ焦ってしまいます。
先日妻が珍しく夜、頻回にLINEを返していると思ったら、ベビーマッサージのサークルの同じグループの人とやりとりしてるみたい。
現在進行形の同志がいるってのは、シンパシーでつながるんだなーと。
夜のやりとり、しかもなんかうなずいたり、ウンウン言って返信してる。
一部のお母さんたちから神と呼ばれている伝説の助産師さんの主宰するベビーマッサージ
この前も相談乗ってもらっていました。
母も父も、子育てのポジティブさだけではやっていけない。
悩みや今、この瞬間を共有しつつ、お互い無理はしないけれど、ちょっとだけ頑張りあって、だけど最終的には、根拠もなく無責任かもしれなけれど、息子を信じるしかありません。
力を抜いて手放しに。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と。