しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々を苔おじさんと呼ばれている代表がつづります。

リベルテの「自由」について


リベルテという名前を法人につけてしまったばっかりに「自由」について悩み続けるハメになりました。
NPO化するためにかかげる「趣旨」に向き合った結果、不完全ながらも自分なりの「自由」について考えた時、ぼくは「何気ない自由」が1つの答えとして捻り撚り出しました。
この瞬間、自分が選んだかけがえのない瞬間の自由を肯定していくためのリベルテです。
5年たった今、それが着実にリベルテの骨格となり血肉となる「思い」として、リベルテを前に漕ぎ出すための礎となっていると勝手に自負しています。

そんなことを下の記事を読んで思い出しました。

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少し話は変わりますが、何で自由は、無条件に良いものだとされるんでしょうか?
自由が自分らしさや自己肯定と結びついて語られたりするときに、ぼくは実は違和感を感じてしまいます。
本当の自由って、例えば、ぼくを「否定する人の自由」も肯定するものじゃないかって、思うからです。
または、自由を疑う自由も、単純な否定や皮肉としてではなく、考える自由のひとつにあると思うからです。


たぶん、たぶんだけど自由を考えるとき、自由と言うとき、その自由は自分を中心として、自分が開放される自由のことを言っていることが多い気がします。
抑圧からの自由、障害からの自由、しがらみからの自由、上下関係・トップダウン・上司部下や先輩後輩の関係性からの自由、家族からの自由、現実の自分からの自由、思い込みからの自由・・・。
もちろん、それが悪い訳じゃないけれど、「私の自由」は誰かの自由を脅かす、または誰かの不自由の上に、自由が成り立つことだってある。


以前、居場所をテーマにトークイベントを開いた時、ゲストの長津結一郎さんが「居場所を開く」ときに全てを「歓待」できるだろうか?というテーゼを投げかけてくれたことがあります。
「多様性」や「社会包括」というとき、それらが指し示す対象、つまりどこからどこまでという「境界線」や、「そこにふくまれないもの」について考えられたりすることは少ないでしょう。
すでに全て含まれていることが前提だから。

もう一つ、自由について思うこと。
それは何かとの対比の中で自由が使われることが多いと感じることです。
繰り返しになるけれど、さっきも例にあげた、抑圧からの自由、障害からの自由、しがらみからの自由・・・。
抑圧に対しての自由な状態、障害があることから自由な状態に、しがらみからの開放された状態の自由・・・など、だけど、その抑圧や障害やしがらみを「否定するための」自由って、本当に自由なんでしょうか。
もちろん、社会的な抑圧や差別、偏見や具体的な行動が伴う攻撃的ないじめは解消されるべきだし、そんな状況はさっさと自由へと歩を進んでいけるようになってほしいし、それを誰ともなく多くの人が手を差し伸べ、実際に行動や活動に移している個人も団体もいると思います。
そういう話とは別に人生、いやそんなに大事にしなくても、何かをやろうと思ったとき、やらなければならないときに、当然、目の前には問題も障害も、眼の上のたんこぶも出てくれば、楽しいことばかりがあるわけではありません。

これら時に、極めて窮屈で面倒くさいため、そこからの自由を私たちは求めがちです。ですが「からの自由」はいったい何の「ための自由」なのか。

そこの部分を見失うと、「からの自由」のその先で、新しい「からの自由」を求めてしまうという螺旋が永遠と続くといえるでしょう。

「からの自由」と「ための自由」―ほんとうに自由に生きるために|磯野真穂|文化人類学者|note

寄ってたかって 絞った知恵 三人以上 五万人未満
未就学児童に 教育指導 堂々巡りの マイナス思考

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自由について。
この何気ない自由のために、リベルテを続けることとは。
また新しい5年の中で、問いながら、答えを出しながら、リベルテという名にある「自由」について、これからも悩み続けようと思います。


この瞬間、「何気ない自由」として自分が選んだかけがえのない瞬間を肯定していくために。