高田純次の適当日記を年のはじめに読みました。
1年間の日記がほぼシモネタと嘘とギャグという、笑いながら読んだ後すぐさまその内容が頭から消えていくという、何も残らない・残さない本でした。
テキトー、本当にテキトー。
内容もどこまでが嘘でどこまでが本当かどうかが解らない、あそこまでいかないとテキトーとは呼べないのではと思うほどテキトーが詰まった本です。
世の中、テキトーを自称自認する人は数多くいますが、高田純次の右に出る人はいないと思います。
走り抜けるように何も残さない(テキトーさの)疾走感が、読んでいてクセに(あくまで、個人的に)なりそうです。
そもそもぼくが高田純次に興味をもったのは、義兄さんが妻曰く「高田純次のような人」と言うところから興味をもちました。
で、もちろん義兄さんには何回か会ったり、年始も上田を案内してたりして、さて?実際の高田純次は?なんて読んでみたら、ホンモノは下ネタのオンパレード。
良かったです。
危うくイメージだけで義兄さん=高田純次という色んな本質を見誤るところでした。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、こういう思い込みって沢山ある気がします。
人の印象って、自分でコントロールできれば良いですが、なかなか出来ないものです。
リベルテの運営するスタジオライトもそうですが障害福祉には、どこでそうなったのか分からないけれど、利用を希望している人として実際の本人と周りの支援者が持つイメージがかけ離れて事業所に紹介されることがあります。
「絶対この人に尖ったものを待たせないで下さい!」とか、「とにかくやさしくしてあげて下さい!」とか、「これしか出来ません!」とか…。
基本的にスタジオライトの場合は、その人が何やりたいかということを一緒に考えることから始めます。
なので、そういう事前情報ももちろん配慮しますが、ぼくらの場合はそこには触れることもなく、「あれ、そういえばあの申し送りって、何だったんだろう?」ということもしばしばおきます。
もちろんぼくらも、この「おじいさんは気の優しそうな人だなー」とか「穏やかそうだなー」とか感じているけど、そういう通い始めた当初の印象のメンバーが、夏になり『取り扱い注意』という大きく書かれたTシャツを着てきたりて、「おお…(そんなTシャツ着て来て…大丈夫なの?)」とか思ったりします。
冗談で着て来たのかと思えば意外と本気で、つまりは何かのメッセージとして着てるらしく、しかも毎年着ていると教えてもらい、「夏の定番なの!?」と驚いたりもします。
普段はシャツとトレーナーとスラックスで、知的な「村長さん」のような人ですが、「取り扱い注意」というTシャツを着たとたん、アナーキーなパンキッシュな雰囲気のおじいさんに変わります。
かと思えば、その翌日はヨットの絵が描かれたTシャツで海辺のペンションのオーナーのようだったりします。
自分も、自分の内面と実際の自分があまりにも違っていてショックを受けることがあります。
気持よく起きれた朝、ノリノリの曲を聴きながら鼻歌を歌いながら気持ちもウキウキの日。
そんな気持ちで鏡を除くと、ハゲかかった疲れたおじさんがあらわれて、その日はショックでベッドにとんぼ返りです。
内面の自分は、かなり補正がかかったイメージで仕上がっているようです…。
内面
↓↓↓
現実
「こうあればいいな」「こういうもののはず」「こうなりたい」という他人の印象や自分自身への期待と、実現とのギャップが人間関係や自分自身の評価に微妙に影響を与えたりする。
そういうことや関係の中で、葛藤や摩擦を大きくしてしまったり、逆に「伸びしろ」となるだろう部分を狭めてしまう可能性ってけっこう身近なことかもしれません。
そして、それが実際の物事や人への批判やネガティブな印象や言動につながってしまう。
と、そういうことを考えていると「障害者」についても、ステレオタイプで一般的に取っ付きづらい印象をつくってしまうのかもしれないなと思っています。
まるで「障害」という言葉が、本当に障害をつくってしまうような。
かと言って「障害」という言葉を「障がい」という言葉に置き換えることや、「障害」という言葉を使わないことがフラットでフェアな態度という考え方も、まるで「障害」がネガティブで隠した方が良いような印象を生んでしまうかもしれません。
「障害」自体が取り扱い注意なのではありません。
そもそもそうであることが問題なのではなくて、そしてそれがネガティブで話してはいけないような話題でもないとぼくは考えています。
むしろ、もっと身近で日々の具体的なところに障害があること、そういうことまで隠してしまうような「障害者」観、障害のある人への知らず知らずのうちに生まれている「印象」や「言動」の方が何とかならないかなー、と思っています。
高田純次の本を読んで、ぼくのお義兄さんは高田純次ではなくて「明石さんま」ような人なのだと感じることができたように。
・・・ん?
で、久々に読み返したくなり探したら、そういえば人に貸しいて、そのままどこかにいってしまい、やはり何も残さない人
という印象が高田純次(の本)に、ますます強くなりましたとさ。