しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々をしゃむしゃむと呼ばれている代表がつづります。

横になる人(障害ってなんじゃらほい②)

f:id:npo_liberte:20160415022137j:plain

ほぼ毎朝晩と、仕事の始まりと終わりにスタッフは10分程度のミーティングをします。
その日のスタッフの動きとか予定を確認したり、ケアやプログラムなど簡単な打ち合わせをする時間があります。
基本的にぼくもスタッフから当日の動きやその日あったことを報告を受けるか、同じように自分の仕事や気がついたことを報告します。
あまり指示を毎日細かく出すということはぼくはしていません(最終的に責任が伴う判断はぼくがします)が、スタッフがその日あったことや目撃した場面の話を聴ていて、なるほど〜と色んなことに気づかされたり、気づくことがあります。
最近はこんな話がありました。

「休憩しているメンバーが同じ格好して横になっているんだけど、2人の状況はぜんぜん違う。そんな場面があって・・・」
そんな話をしてくれたスタッフは、「それがリベルテらしい」とも言っていて、(確かに、そうだなぁ)と思いました。
それで、そういう特に印象深い話なんかは、ぼくはひとり自分の頭のなかで、それってどういうことなんだろうと、今度は自分の考えとしてまとめたりもします。

「障害って、なんじゃらほい」と考えてみようと思っていることは以前、苔おじさん通信でも書きましたが、今回スタッフが目撃した風景って、そのヒントになるなとぼくは思いました。
kokeojisan.npo-liberte.org

例えば(あくまで例えばですが)、2人の「横になる人」のどちらかは、いつも調子が悪くしんどくて横になっている人で、もう片方の人はたまたま横になりたかっただけだった、とします。
で、いつも横になっている人は、たまたま横になりたかった人より身体的(にまたは精神的)にしんどいかもしれません。
たまたま横になっている人は、どうして横になったのかわかりませんが、今日はそのいつもしんどい人と同じタイミングで横になっていたとします。

では例えば、仕事中、たまたま横になっていたメンバーに「仕事、頑張りましょう」とは声かけをしていたら、どうだったんだろう?
もちろん、声かけしたとしても間違えではないけれど、むしろ「どうして」たまたま横になっている人に声をかけたのか、はたまた「どうして」いつも横になっている人には声かけをしないのか、「横になる人」が同じ部屋にいてどちらかに「声をかける」とき、その「どうして」ってけっこう大事だと思います。
そんなふうに(ぼくが)書くと、じゃあ、「声かけひとつとっても、深い考えとして、その行動を支える意思決定にまで行き渡ったスタッフへの指示や人材育成の必要性があるのですか?」なんて思われたり・・・、スタッフも(いやいやそんな深くは・・・)と、思うかもしれません。

f:id:npo_liberte:20160415022316j:plain

スタッフがいつもよくあるリベルテの風景を改めて報告してくれたことで、ぼくがより感じたこと。
それは、なんだか全く違う、それこそ理解できないぐらい違いがある「人」同士でも、100%完璧にお互いに理解することをしなくても、そこにいて「いい」ということです。
「共にすごせることができる」そんな仕組みや環境、かかわる支援者もその「人」として関係づくりもふくめて考えて取り組むことが、リベルテも含めた福祉の仕事なのかもしれない、ということです。
「どうして」しんどい人は横になっていることが当然で、たまたま横になっている人は頑張らなければいけないのか。
または、きっとお互いの状況を面と向かって話し合ったりなんかしはじめて、理解し合おうとすればするほど噛み合わない状況にいる人同士(だとして・・・本当はそれも違うかもしれないけれど)も、そのときたまたま横なっているということって、大事にしたいところだなーと思っています。
ちなみにスタッフが「リベルテらしいな〜」とまず思ってくれたのがぼくは、(やっぱりリベルテらしいな〜)と思いました。

もちろん、その逆もそうで、何だかわからないけれど、よいしょと一緒に頑張らなければならないといけないときも、きっとあります。
そのときに、同じ頑張ることにも、違いがあるし、具体的に「できる」ことと「できない」こともうまれます。
たしかに「頑張ったらできる」っていうルールは、○か×というように、わかりやすい答えを導いてくれます。
残念ながら「頑張ってもできない」ことって、けっこう沢山日常にも転がっているし、だからじゃあ「頑張ってもできない」ことが全て悪いとしたら、なかなか生きづらい世の中ですよね。

f:id:npo_liberte:20160415022755j:plain

障害のある人にとっての「障害」は、機能や状態・状況として理解や共感ができるものも、もちろんありますが、その人に向き合って深く深く知り合えば100%理解し合える、というものでもないとぼくは思っています。
(むしろ、友人も家族も兄弟もスタッフも妻でさえ、ぼくは知れば知るほど、その人ことについて良い意味で不思議や謎が増えていきます。)
例えば、今回のようにリベルテには横になっている人も当然いてよくて、それぞれ違う生活や個性や考え方があって、その人の生き方の中には障害が多少影響しているかもしれません。
そこで、障害の軽い重いや、言葉が達者かどうか、相談の多い少ない、リベルテに関わった年月って、あまり関係ない気がします。
ぼくもそこまで人のことを理解する能力について自分を過信も自慢もできないですし、きっと(近所の子どもに苔おじさんとコソコソ呼ばれてるぐらいなので)人格としても伴わないでしょう。
だけど、そんなぼくも「違う人」同士として、なんだか一緒にいれる、共に何かをしている/していける場をつくることが、ぼくらの仕事のひとつだと思っています。