しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々をしゃむしゃむと呼ばれている代表がつづります。

障害ってなんじゃらほい①

障害ってなんだろう。うーん。
自分が福祉の仕事でよく使う「ことば」ほど、意味がわからない。
いえいえ、使っているし意味もわかるんだけど、そもそもどういうふうに自分がその事柄を捉えて、人に説明できるかということを考えて(ひとりで)悩むことがあります。
考えれば考えるほど・・・、メンバーのことを考え、家族のことを考え、自分のこととして考えて、どういうことなんだろ?
最近、「障害のある人」というときの「障害」の説明ではっとさせらたのは、「“かぜ”みたいなもんだろ?」です。
妻の参加しているサークルでリベルテの話になったときに、ある人が言ったそうです。
おお。とぼくは思いました。
その人は「風邪」と言ったのですが、ぼくには「風」と聴こえました。
そう聞き間違えて、ピンときました。
むしろ、グッときました。


「そよ風」「台風」
おなじ「風」の現象ですよね。例えば、どちらがすごしやすいでしょうか?
断然、そよ風ですよね。
そよ風が心地良い昼下がりの午後に木陰の下で、コーヒーなんて優雅に飲む。
いいですね。嫌いじゃないですね。
え?苔おじさんには、似合わない。
確かに。

台風なんて来襲されたら大変ですよね。
風は強いは雨は降りまくるは物は飛んで来るは交通機関は麻痺するはで、普段の生活どころでなくなります。
傘は飛ぶはスカートはめくれるはカツラは飛んでいくはで、きっとえらい騒ぎです。
しかも健康や性格も関係なく、お金あるなしエラいエラくないを通りこし、才能や見たも気にせず、ゴーゴーゴー沢山の人を、ブヲーブヲー巻き込んでいく。
ぼくは台風の夜なんかは今でも怖いようなワクワクするような気分が浮ついた変な気持ちになります。

そして、そよ風も台風もいつの間にか、なくなる。
「そよ風」や「台風」に吹かれている人たちをのこして。

f:id:npo_liberte:20160211004259j:plain


障害のある人たちにとって、障害というのは、その風そのものではないか、と妄想してみました。
その人自身が風となり障害になっているのではなく、その直中にいる人が感じている風圧や風速、それによって飛んでくるゴミや雨だったり雷だったりするそれが巻き起こす災害にもなりうるのが、「障害」と考えると、どうでしょう?
熱帯低気圧の中心付近の風速がドンドン上がることで発生する台風も、かなり極端な条件で発生する自然現象です。
障害のというものが生まれる環境も、特殊な条件の中で、より強い「台風」を生み出すこともあるのかもしれないなと思ったりもしました。

では、その台風のような障害はなくなれば良いのか?どうなのか。

台風の他にも、風には沢山の種類や呼び名があります。
凩(こがらし)、嵐、涼風、辻風(つむじかぜ)、春一番、ビル風などなど。
台風だって、その台風が起こることで日本のダムや自然の川へも水を沢山運び、ときには生き物が移動手段に使い、はたまた、もともといなかった生き物が土地を移動することを手助けをし(迷わせ?)たりすることもあるそうです。
こうやって「障害」を風にたとえて、台風を調べてみると、人の存在にとって欠かせないものであったり、生物の多様性を守ったりときには促したりするようなこともしているって、そう考えると、「台風」も被害面のネガティブなことの他、ちがう一面も見えてくるんですね。
それと同じように「そよ風」も、すごしやすさがあるには越したことはないけれど、もしかしたらそれぐらいだったら、たんぽぽのような綿毛を飛ばしたい植物にとっては(生きるためには!)物足りないかもしれませんね。
障害のある人ない人にとっても、何か条件が揃うことで普段、当たり前のように吹いている風が気象現象のごとく変化することがある、そのことが「障害」になったり、べつのもになったりするのかもしれないな〜と、思いました。


Kahimi Karie & Jim O'Rourke - Furaibo - Hosono Tribute

こうやって「障害」とはなんだろう?なんじゃらほい。と、ぼくは(ひとりで好き勝手に)考える、いや妄想・空想していることがあります。
そして最近は「健常」って何だろう?または「定型発達」とは何だろう?とか考えています。
精神障害や発達障害のある当事者の人たちが自分たちの障害や病気のことを研究する「当事者研究」というものがあるのですが、それだったら自分自身のこととして「健常」や「定型発達」とは何か?みたいなことも考えてみようかなと思っています。
「○○障害について」や「◇◇症候群について」とかは本にもなっているし解った気になっているぼくだけど、じゃあ「健常について」「定型発達について」ということを、自分たちをある「かたまり」で捉えてぼく自身を自分でラベリング・定義してみたらどうなんでしょうね。
どうなることやら。すこし幅のある想像や妄想、空想と、ぼくが理解したり調べたりできる範囲のものごとの間を行ったり来たりしながら、考える実験を試してみようかしら。

自分自身がどういう「かたまり」の中で生きていて、どんな文化や社会性や関係をつくっているか言葉にしてみることで、当たり前につかっている「障害」や他のことって何だろう、ということを考えてみたいなーと思います。
不定期シリーズ苔おじさんが考える「「障害ってなんじゃらほい」始めてみようかと思います。
(つづく・・・!?)