しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々をしゃむしゃむと呼ばれている代表がつづります。

映画「まく子」(@上田映劇)の感想

上田映劇で映画「まく子」を観てきました。

草なぎ剛の父親姿!映画『まく子』特報映像
makuko-movie.jp

映画『まく子』 
公式HP:http://makuko-movie.jp
出演:山﨑 光 新音 須藤理彩/草彅 剛 
つみきみほ 村上 純(しずる) 橋本 淳 内川蓮生 根岸季衣 小倉久寛
原作:「まく子」西加奈子(福音館書店 刊)    
監督・脚本:鶴岡慧子  
主題歌:高橋 優「若気の至り」(ワーナーミュージックジャパン/unBORDE)
©2019「まく子」製作委員会/西加奈子福音館書店

www.uedaeigeki.com
以下、ネタバレ含むので注意!
鑑賞しながら思い浮かんだ言葉は「自由落下の美しさ」です。物語の中心になる登場人物「コズエ」はあるシーンで「わかった!なんで面白いのか。落ちるからキレイなんだ。」というようなセリフを言います。そのとき「自由落下の美しさ」というフレーズが思い浮かびました。
鑑賞後「自由落下」の意味を調べました。直感で思いついたフレーズと物語の本編で使われている「落ちる」意味は全く反対の意味でした。

自由落下(じゆうらっか、英: free fall)とは、物体が空気の摩擦や抵抗などの影響を受けずに、重力の働きだけによって落下する現象。真空中での落下。重力以外の外力が存在しない状況下での運動のことである。
自由落下 - Wikipedia

むしろ主人公の「サトシ」が怯えている「変わること」や「成長」、そしてその先にある「死ぬ」ということに対する感覚として、「自由落下」という言葉が当てはまるのかもしれません。作中でサトシは父の浮気や、自分自身も父のような大人に肉体的に変化していることに気付きます。自分の金玉がグロテスクに大きくなっていることに嫌悪し、父が母以外の女性と夜道を歩いている後ろ姿に困惑し、さらに同伴している女性には性的なニオイを嗅ぎ取ります。そうした心身の変化と同時に目の前に起こったことへの混乱が「大人=父」への嫌悪感を大きくしていきます。
方や同級生の子供っぽい言動や女子からの視線、「UFOが見える」「私は宇宙人」という言葉をサトシは「嘘だ」と拒みます。自分自身がこれまで当然のように信じ遊んでいただろう世界の「真実」に、急に子供っぽさを感じてしまい、否定しようとしているようにも見えます。変わりたくないと思う反面、変わらない周囲を遠ざけようとします。しかし自分の体と心の変化にサトシは戸惑います。これまでは身体は一致していて、思った方向に動き感じたままに言動していた「はず」。なのに急激な成長によって「体」と「心」のバランスが危うくなっていく。成長の中で不安定になり、そのスピードについていけなくなっているのだと思います。自分が「死ぬ」ことに急激に近づいていること、その「速さ」を目の当たりにし、しかしまだ「子ども」のサトシは直感的にそれに気付いてしまっているのかもしれません。「自由落下」のスピードにサトシは怯えているのだと思いました。


ではコズエの言う「落ちる」はどんなことなのか。この「自由落下」とは違う気がします。撒いた葉が空を「飛び続け」はしないけれど、ともコズエは言います。葉っぱを撒くと重力以外にも風の抵抗や葉っぱ同士が重なり影響を受け、また互いにも影響し合いながらヒラヒラと舞い落ちます。落ちるまでの間、そこに時間が生まれる。重力や引力という抗えようにないものだけが「落ちる」ということを決定づけている訳じゃありません。サトシにとって、コズエはまさしく落下の最中に出会った、風に吹かれて舞ってきた1枚の葉っぱです。コズエに出会ったことで、サトシは自由落下から逃れるきっかけが生まれ、落ちていく軌道が確実に変わったことでしょう。それはサトシのみならず、同級生たちもそうだし、その彼女・彼らもサトシにとっては重力の中で出会う風でもあります。そして家族も街の人も。お互いに。


この映画で感動したことは、成長を「何かが出来るようになること」や「身体の変化」であったり、ただ「純粋さが失われていくもの」として描いていないことです。落下するという抗いようのない「大きな永遠」に対して、風の抵抗や葉っぱ同士の接触でヒラヒラと軌道が変わるような、その弱さの中に美しさやおもしろい「小さな永遠」が描かれています。描こうとしているのではないでしょうか。実際の映像の中で葉っぱを撒くシーンに「特別美しい演出」がされているかというとそういう訳ではありません。しかし、葉っぱを撒く子どもである「コズエ」にとってそれは美しく、面白いものだったのです。彼女の主観は彼女たちが正体を明かし帰るの日の空に起こる出来事として再現されているのかもしれません。あの唐突に差し込まれるシーンに最初は戸惑いましたが、コズエやその母が「観察」し「探した」日々は、あの空の出来事として街の人が追体験したのだとしたら、コズエにとって宙に舞う葉は、キラキラと輝いていたのです。
もう1つこの映画の中で、サトシは大人に導かれたりはしません。出てくる大人はどこか頼りなく、そして下世話です。ベテラン中居のおばさんのように、切ない過去をみんな持っています。小さな温泉街でみんな顔見知りで、だからちょっとめんどくさくて、外からきた人を「宇宙人」と感じることも、実はとても現実的だなと思いました。小学校前に居座り漫画を読み聞かせる「ドノ」も大人からしたら変わり者でしょう。高学年にもなってUFOや宇宙人の話をする同級生は、やっぱり変だし、浮気する「父」はサトシや子どもたちにとって変態に見えても仕方がありません。そういうグロテクスな大人になっていく中で、子どもたちはやがて信じていたことが嘘だったと気付いてしまうこともあるでしょう。だけど、ドノは「ぼくは相手が宇宙人だと言ったら、それを信じる」と言えてしまう。女ったらしで満足に洗濯機も使えない父が握る「おむすび」が母よりも大きい。別れを前にして、自分の思いを確認し言葉にして伝えられる。そういう「自分自身」が、するとかされるとかではなく、どうやらその真ん中あたりにある何かに動かされて、内面を変化させていくこと、それがサトシ自身をどんどんと内面を変えていきます。そこに未熟であるとか、非現実的であるとか、できるようになることが増えるとかいう「成長」はありません。変わっていくことを優しくそっと押してくる人たちがいるだけです。


いやいや、それは眼の前に起こったこと、その条件に対する反射でしかないよ。と言う人もいるかもしれません。そう、だからこそ、その反射態となる「ぼく」や「あなた」が、この抗いがたい重力の下でヒラヒラと舞い、出会い別れながら、そこで起こる出来事や言葉を信じていくこととして、成長を肯定する意味が生まれるんじゃないでしょうか。自由落下は、それが重力の方向に引かれているだけで実は上に登っているのか下に落ちているのかわかりません。成長を上に登っていると思ってたけれど、それは重力が見せる錯覚で実は、ただ落下していることに気づけないだけなのかもしれません。
 
映画「まく子」は、「ぼく」や「あなた」が、この抗いがたい重力の下でヒラヒラと舞い、出会い別れ、そして成長し変化していくことを肯定する映画だと思いました。


映画『まく子』(3/15全国公開)スペシャルメイキング映像

高橋優主題歌入り!映画『まく子』予告【3/15(金)テアトル新宿ほか全国公開】

そして草なぎ剛、サイコー!

まく子 (福音館の単行本)

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まく子 (福音館文庫)

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