しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々を苔おじさんと呼ばれている代表がつづります。

幡野広志 写真展『いただきます、ごちそうさま。』を観ました。

久々のしゃむしゃむ通信の更新。

妻と息子と幡野広志さんの写真を観ました。
w2.avis.ne.jp

幡野広志 写真展『いただきます、ごちそうさま。』
浅間縄文ミュージアム企画展示室 
会期:2018年12月5日(水)~12月28日(金) 
休館日:12月10・17日・25日
観覧無料 ※常設展は有料となります
お問合わせ:浅間縄文ミュージアム博物館 0267-32-8922

note.mu



※注意
写真展の感想ですが、展示会や感想の文章ついて人によっては苦手とかじる方もいらっしゃるかもしれません。
写真やイラストなどはありませんが、動物の解体などの描写が苦手な方はご注意下さい。
もし苦手な方が、よければこちらの記事をお読み下さい。
mshkztk.npo-liberte.org



#本文ここから

雪山で銃猟し、ナイフで捌き、取り出され血肉内蔵骨が暖かさを失い、角牙皮毛が冷風や川水に晒され、冷え固まり命が失われていくそれらがとても「美しい」と感じました。
本当は目をそむけたいし、実際には凝視なんて怖くてできないのだけれど。
それは「美しい」と感じてしまう恐怖を感じ気持ちが動揺すると同時に何か違う心のザワメキに、嫌悪感や拒否反応として身体が示すかもしれません。

作者の幡野さんは自身が血液のガンを患い、治療後に行った猟で仕留めたことのなかったイノシシを初めて撃ち(殺し)、そしてその翌日に猟銃を売り払ったそうです。
展示会にあるテキストの中で猟師のマッチョでホモソーシャルな男性性が支配する社会に対して強く批判を書いています。
また銃猟を手放す前日のエピソードは、ガンで死んで自分自身が死んだ後に残された子どもと妻のことを、これから撃とうとするイノシシ親子に重ねて合わせ、あまりに正直故に、人の勝手で動物を殺すこととについて観ているぼく自身も巻き込み突きつけられてしまうような、切実さがあります。
今の世の中は、軽く早く広く沢山の人に、ゆるく軽く「イイね」されることに、とても意味を持ち、重く苦しく悲しい思慮深さや思想、哲学は嫌がれる傾向にあります。
どちらも意味や価値としては等価で、どちらが正しいかどうかなんて、そのときそのときでいくらでも変化します。
銃を向ける人と動物だって本来はそういうものです。

美術や芸術に限らず、多くの人の目に触れる媒体で、殺すこと、殺されること、死ぬこと、生きることの表現について、規制されることも多くなっているように感じます。
幡野さんの余命が数年であることが名言されていることで、作品展を通して、「余命幾ばくもない作家が一生懸命に撮影した作品」というわかりやすいお涙頂戴という物語に改変・回収されてしまうかもしれません。
自身がガンになったから命の向き合い方が変わった、それは確かに自覚的な部分ではそうなのかもしれませんが、狩猟の現場にカメランとして入っていったことを考えると、最初は好奇心だったとして、もしかしたら幡野さん自身はすでに、そこにある「美しさ」に気づき惹かれていたのかもしれません。
腹を切り裂き今、正に取り出した内臓が命の熱を帯びていることが伝わる、雪の上に立ち込める湯気に感じる暖かさや、取り出された胎児の艶やかさは、銃猟の残酷さや命の儚さ以上に、生きることと死ぬことが「いつかある」のではなく「そうである」という普遍的な切実さを伴って迫ってきます。
ぼくが感じる「美しさ」とは、その切実さに胸を掻きむしりたくなるような苦しさや切なさ、自分が恐れていたり憧れているそのものに対する畏敬の念なのかもしれません。
作品と幡野さんのテキストの往復する行為・鑑賞は、自分自身に心の中に木魂する想像によって作者が無慈悲に突きつけられた死への怒りや恐怖、生きることや命の意味や価値の答えの出ない対話の往復を試みることです。

幡野さんがテキストで批判は、ある種、閉じられた関係性や集団の社会性の中で醸造された暴力があまりにも軽々しく人に向かうことへの怒りがあったのだと思います。
その感受性が、ガン発病が発覚したことに寄って引かれた心のトリガーだったのか、それとも「撮影すること」「発泡すること」を「Shooting」と英語では訳されることに対する敏感さを持ち得たからこそ猟銃の世界に入り込んだのか。

数年前の話なんだけど、狩猟中に山で遭難したことがある。
(中略)
荷物を軽くしようと必要のないものを山に捨てた。
所持品の中で重量物のツートップが鉄砲とカメラ、どちらも金属の塊だ。
鉄砲を捨てて助かっても警察沙汰&ニュースになり、下手すれば逮捕。
迷いもせず僕はカメラを捨てた。
カメラなんて大量生産品どこでも買える、大切なのは写真であってカメラじゃない。

下山途中に鹿がいたので撃った、若いオスだった。肉を持ち帰る余裕なんて無かったのに獲った。
お腹をあけてレバーと心臓と背中のロースだけ剥ぎ取った。鹿の体内はお湯のように熱く感じた。
恐る恐る血を手ですくい飲んでみると驚くほど美味しかった。
折れかけた心が復活してその後無事下山できた。
迷いもなくカメラを捨てたことと、あのときの鹿の命は今でも忘れられない。

ガンと診断されて一番最初に処分しなければと思ったものが鉄砲だ。
あのとき命を繋いでくれた鉄砲がいまでは邪魔になっている。
死ぬのに鉄砲は必要ない、いま必要なのはカメラだ。

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今日も、妻と浅間縄文ミュージアムまでドライブしたり掃除しながら痴話喧嘩したり笑ったりゴロゴロ、息子と遊んで彼の笑顔に見とれたり「明日も一緒にすごせたらいいな」と思ったりしました。
メリークリスマス。