苔おじさんのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々を苔おじさんと呼ばれている代表がつづります。

大人と自由

何度か、このブログで書きましたが昨年、子どもが生まれ父になりました。
父と言う存在は、赤ちゃんにとって関係としては母のように生きるために必要な人ではなく、まあ曖昧なもので、たぶんいつもいる「おもちゃ」か「ゆうじん」のようなものだと感じます。

飼っている猫より、微笑んだりかまったりしてくれるけど、お腹が空いてくるとぼくは、役に立たない近くにいる大きな友だちのようだ。
そのうち、きっと息子も「なんだ父か」と気づくのでしょう。
子どもはぼくや、妻や、その両親や兄弟が考えるような「家族」という意味や概念とは違うコード、つまり感じ方で妻やぼく(や猫のアワ)のことを家族として捉えているだんと思います。



だから、ぼくが持っている家族観や親子の関係の考え方なんてものは、本当にあまり意味がないんだなと思います。
赤ちゃんや子どもたちは、ぼくたち大人が共有している家族や親子というルールみたいなものから、逸脱した存在だな感じます。
だから大人になるということは、「大人」から一方的に「こういうものだ」と教わって、それが常識として獲得していくって、そういうことでもあるかもしれません。
もちろん、それが正しいときもあれば正しくないときもあるだろうし、生きるために役に立つものから、全然役に立たないけどその人の人生足らしめることにもなるっこともあると思います。

自分がどうして「大人」の仲間なのか、自分は大人なのか、ということを客観的に証明するって、ぼくは難しい。
年齢なのか、生物的生理学的な身体の変化なのか、精神や知的な発達で測るのか。
でも、いつの間にか大人になっている(かもしれない)ぼくは、そういう社会性の中で生きていくことを(勝手に)引き受けているし、息子はいつか、ぼくがどうやら「大人」であるといつか気づくのでしょう。
もしかしたら、そのとき息子は、初めて自分の意識として「父だ」とぼくのことを理解するのかもしれません。

社会性や関係性がルールやしがらみに感じ、煩わしくそして強固に自分自身の自由を奪っていると感じることって、大人になれば沢山あるし、、、いや大人になればというより依然とぼくには、多いです。
だけど、そうだとして、自由は誰かが用意してくれるものでもないでしょう。
そういうときこそ、工夫して、その関係性や社会性について、そのこと自体を振り返り、不可能性ではなくその可能性について考えて、今できることから、その関係性の中ではじめてみる。
笑うようになった息子は、ぼくが何者かもわからない「ただいつもいる人」でしかないのに、ぼくが笑うよりも先に笑顔を向けてくれます。

それと同列に並べて良いのかわからないけれど、、、リベルテのスタジオライトメンバーで子どもに何年も触れたことがないだろうメンバーが、息子を見つけるやいなや笑顔を向け、カワイイと頭をなで、じーっと見つめます。
すごく真剣に、ときに目尻にシワを寄せた笑顔で。

そんなことができるのが「子どもの力」だし、もしかしたら「人」が本来持つ「人との関係」に対する反射的な身体と精神の不思議さなのかもしれません。
そして、もしかしたらぼくたちの福祉の仕事は、今ある関係性を、窮屈だから外に向けるのではなくて、しがらみや抑圧を解きほぐしながらシンプルに社会へ編み目を広げていくことなのかもしれません。