しゃむしゃむのリベルテ通信

NPO法人リベルテの日々をしゃむしゃむと呼ばれている代表がつづります。

パワレスな人のストレングスでエンパワメントするためにラポールを(PDCAで)

タイトルで何を言っているんだとツッコまれそうだけど、先日(2018年1月11日)、参加してきたサービス管理責任者の共通講義分での出たカタカナのワードをつなげてものです。
で、実はこれで福祉サービスとして利用者に対して支援を提供するために立案する個別支援計画の基本的な考え方を言い表しているのです。

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感想や自分の正直な考えを述べるだけなら(たぶん)怒られたりしないと思うけれど…。
障害福祉サービスにおける資格や要件となる県や委託団体が主催する研修は、日頃の業務や現場から離れることで得られることもありますが、一定のモヤモヤも残り、疲れます。
それはタイトルのようなカタカナ語が連続していて、「日本語で言え!」というようなモヤモヤ、では決してないです。
むしろエンパワメントもストレングスも大事な考え方で(実際にその単語を日常的に使うかどうかは別として)、ぼくのような立場で研修に出ている人が知ろうとしないのはマズいとも思っています。
何がモヤモヤするかというと、障害のある人が「パワレスな状態」であることはそういうこともあるだろうし、「ストレングス=その人や置かれている環境の強み」もきっとあるだろう、だけどパワレスな状態をストレングスによってエンパワメントするべきはそもそも、その人自身だけで良いんだろうか?
確かにこの研修は「サービス管理責任者」という福祉サービスの提供についてマネジメントする職務の話なのだから、障害のある人自身に向けてケアをチームとして取り組むことについての勉強する場だ。
だから、正しいのだけれど、だけど、それってじゃあ…。
エンパワメントやストレングスという考え方や実践的なケアの理論が出てきた背景には、差別や抑圧という構造を変えようという対社会の力学が働いていたはず。
しかし、今回の研修の頭でも県職員からのレクチャーでもあったように、「障害」の概念は、もうとっくに医学モデルから社会モデルになっているのだったら、パワレスな状態にあるのは社会だし、その構造自体をエンパワメントしなければいけないはずだ。
しかし「その人のエンパワメントを」となると正しいけれど「社会の障害は?」「パワレスな状態が悪いの?」「課題なの?」と感じてしまう。
「本人の」エンパワメントが必要なのは「パワレスな状態にあるから」?
でも、その原因である社会やその構造はどこに?
その考え方でいくと「障害」について、「こういう社会だから障害のある人はいる」なので「障害のある人を応援しよう」という、ある種の社会モデルへの観念のような話にぼくは聞こえてしまう。
今回の研修を否定したいわけじゃないし、パワレスな人のストレングスでエンパワメントするためにラポールを支援者は築いていく*1ことも必要だと思います。
たぶん、ぼくのモヤモヤは、「社会の側の障害」についての「ケア」はどうするのかっていうことなんだろう。
たとえ人がパワレスな状況でも、社会や関係の中の障害を本人も共に解決していくことで、社会側も本人との関係性についてエンパワメントされて、本人が属する、属していきたいコミュニティのストレングスが生まれる=インクルーシブされるという、そういうことが福祉の仕事ではないのだろうか?と、単純に考えるのです。
そのとき、ぼくたち支援者といえば、自分の身体をケアの媒介する役割として、社会の中にいることで障害のある人とともに、またはこの時代に生きにくさを感じている人ともに居続けることで、そのコミュニティが変わっていくことを目指す仕事なのでは。

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パワレスな状態にいる人が「悪」ではないし、パワレスな人がそのままでも、それでもその社会がそれによって「障害」を生み出ささないならば、そっちの方がきっとストレングスはたくさんあるはずだし、生きやすんじゃないかと思うからです。
その時、ケアの主体、つまり「ケアをする」「支援をする」側に障害のある人たちが立つんじゃないか、セルフケアによって社会の障害が消えていくんじゃないか、ってそれは飛躍した妄想かな想像なのかな(モヤモヤ)

*1:あえて研修で紹介された言葉で表現すれば。